JR北海道社長の自殺に思う

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JR北海道の社長が脱線事故に関係して自殺をされた事件についての記事を新聞で読みながら、複雑な感情を抱きました。日本社会では、人命に関わるような事故を起こした組織の長、あるいは大損失を出した企業のトップが、事後処理もままならないなかで自らのいのちを絶つ、という事例が非常に多いように思われます。

このことについては、真実の究明を非常に難しくさせるという直接的なマイナス効果がありますが、それ以上に、「死んだのだから」「いのちを持って償ったのだから」ということで、事後処理がうやむやになってしまう、という実際的な問題が大きくあるのは言うまでもありません。その点で、「自殺」という選択自体に対しては、私は非難に値すると思うのです。

しかし、このことは問題の表層にすぎません。もっと深い「根」は、「自殺という道を選択せざるを得ない方向に有形無形の圧力をかける日本社会自体にある」と思うからです。具体的に言えば、それは以下のようなものだと言えましょう。

1.謝罪をしても赦さない社会の風潮

日本という社会は、謝罪が通用しない社会だと言っても過言ではないと思います。謝罪会見などで、「申し訳ございませんでした・・」と言って頭を下げる組織のトップをよく見ます。時には涙を流したり、土下座までする人もいます。しかし、そういう人を見て、「赦します」と言う人は稀ではないでしょうか。

メディアはむしろ、「形だけの謝罪では無いか」と追及の手をさらに強め、時には怒号まで飛び交います。それは、先日の鉢呂経産相の辞任会見で一部の記者に見られたとおりです。もちろん、「形だけの謝罪」が無い訳ではありません。本心からでないことを易々とやってのける狡猾な人物も一定数いることは否めません。しかし、私が思うのは、「日本社会というものは、そうした少数の事例を一般化してしまって、あらゆる『謝罪の言葉』を疑ってかかる社会になってしまっているのではないか」ということです。

それは、社会的立場のある人たちに対するものだけでは無いようにも思います。一般人のレベルでも、本心から語った「ごめんなさい」「すみませんでした」が通じない、という経験をすることが、多くなっているのではないでしょうか。

謝罪の言葉を受け入れないということは、裏を返せば「再起を許さない」ということでもあります。寛容の精神を失ったこの社会は、一度罪を犯せばもう二度と社会復帰はできないような圧力を、当事者に対して与え続けるようになってきています。その結果、精神的にタフではないタイプのリーダー(日本型企業に特に多いように思います)は、その執拗な追及に追い詰められ、心を壊し、その苦しみから逃れるために、「死」という道を選ぶのではないでしょうか。今回のJR北海道の社長の自殺も、そういう文脈で捉えるならば、ある程度理解できるように思うのです。

民主党の小沢氏、また先日自民党の石原伸晃氏も同様の発言をしましたが、日本でよく言われることに、「キリスト教は排他的・非寛容の宗教だが、日本古来の神道は何でも受け入れる寛容の宗教だ。現代の戦争の原因はキリスト教の世界観にある」という趣旨の発言があります。多くの人が、アメリカや欧米諸国など「キリスト教文明の国家」と思われている国々の振る舞いを見て、同じ思いを抱いていることでしょう。

この論評自体の正当性について評価することは本稿の目的ではありません。「キリスト教国家」と呼ばれる欧米の国々が、もはやその体を成していないことは、日本人にはほとんど知られていません。ですからこれは「イメージ」にすぎない、ということです。

しかし一点だけ、見逃してはならないことがあります。それは、「キリスト教の神髄は、悔い改めて神に立ち返る者を、神は無条件で受け入れる」というこの事実です。聖書は、「心からの謝罪」は、それがいかなる罪であろうとも、赦しを得ることができる、と教えているのです。

「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます。」(Iヨハネ1章9節)

翻って日本社会はどうでしょう。小沢氏などは日本を「寛容の社会」と言いますが、その日本で実際にあるのは、「非寛容の社会そのもの、一度罪を犯すと二度と立ち上がれない社会」ではないでしょうか。彼らが「日本は寛容だ」と言っているのは、実は「自分と同じ考えを持ち、同化する相手なら、少々の差異はこだわらない(目をつぶる)」という意味にすぎないのです。むしろ自分と異なる存在に対しては、徹底的に攻撃し、排斥し、謝罪さえ受け入れずに追い詰め、追い落としていく。これが、実際の日本社会ではないでしょうか。

キリシタン禁制時代の日本、また第二次大戦中の日本は「寛容な社会」どころか「著しく人権が踏みにじられていた時代」でした。歴史を振り返れば、日本が本当に異質の存在に対して寛容であった時代など皆無、と言えるのではないでしょうか。それは、「日本という国の本質は実は非寛容である」、と言っても過言ではないでしょう。だからこそ、罪を犯した人が、次々と再起不能にされていくのです。

2.「罪」の理解に大いなる問題がある

もう一つ、日本社会が非寛容な理由として考えられるのが、特異なる「罪」の理解です。神道では「お祓い」という儀式があります。神主が毛の付いた棒を左右に振るという、あの動作です。地鎮祭などでもこれは必ず行われています。

では、その動作の意味するところは何でしょうか。それは「ハラウ」という言葉からも分かるように、「ケガレをハライ落とす」ということです。つまり、神道の理解では、人間のケガレ(=罪と言っても良いでしょう)は、サササッと払い落とせば事足りるものとされている、ということです。それは裏を返せば、「もともとはケガレが無い存在なのだが、その表面に時折ケガレが付くことがある。それをハラえば、また清くなる」ということです。要するに、神道では、ケガレというものを人間存在の内側の最も深いところに巣くう病理として捉えるのでは無く、表層に付着した汚れのようなもの、と理解しているのです。だから「みそぎは済んだ」というような、まるで時間が経てばケガレが自然に落ちていくかのような、そういう言葉さえ出てくるのです。

これは、聖書の罪理解とは決定的に異なる点です。聖書は、罪は人の心の最も深いところに根ざしており、人間はその力に抗うことは出来ない、と考えます。つまり、罪に対する人間の敗北を前提にしている、ということです。換言すればこれは、「自然のままの状態では、人間は罪を自然に犯していく存在である」ということです。罪は「祓う」ことで取り去ることが出来るようなものではなく、存在の最も根本的な部分に厳然と存在している、と理解しています。だからこそ人は神を必要としているのであり、本質的な意味での罪の赦しと罪からの解放は、神からしか来ない、と考えます。そういう意味で、あらゆる人間は罪の下にあり、その点において彼我に何の違いも無い、と捉えるのです。

このことが、今回のJR北海道の社長の自殺と何の関係があるのか、と思うかも知れません。実は大ありなのです。それは、「『謝罪を受け入れない』ということは、『自分は正しい』と思うことと裏返し」だからです。自分は清い、潔白だと思い込んでいるからこそ、「ケガレた人」を受け入れることが出来ず、非寛容な態度を取るのです。罪と言うものを神道的に理解しているからこそ、そういう態度を取れるのです。しかし、もし聖書的な罪の理解をするならば、人を非難するよりも先に、まず自分を省みる、ということが先になるはずです。

従って、なぜ日本が非寛容な社会なのか、という理由の根本には、このような自己中心的な「ケガレ(罪)」理解があると私は思っています。そしてまさにこの罪理解の問題ゆえに、日本人にキリスト者が少ないのだと言えると思います。

3.「謝罪」と「償い」を混同している

最後に、「謝罪をする」ということと、「実際に償う」ということは分けて考えなければならない、ということを述べたいと思います。日本では、「謝罪」が一人歩きして、その事後処理がどうであったかということはうやむやにされがちです。「心が感じられない」とか「誠意がない」といって、謝罪と償いを一緒くたに考えることが殆どです。

このことは、かえって事後処理を難しくし、感情的な対立としこりだけを残して、問題を全く先に進ませない原動力になっているのではないでしょうか。その最たる例が、福島原発の事故に見られると思います。私は、あの事故に関わった当事者たちは、足りない点があったにせよ、できうる限りをしたと思います。それ故に、謝罪の言葉は受け入れるべきであり、それで終わったものと考えるべきだと思います。

ですから「償い(=事後処理)」については、純粋に謝罪が終わった後の原状復帰に向けた最大限の努力をする、という前向きな方向で考えるべきであり、「やはりあのときの対応が…」などと、後から言い出すべきではないことは言うまでもありません。それをしても事態は一向に前に進まないばかりか、「謝罪を受け入れない」というメッセージを発することになり、当事者を精神的に追い詰め、今回のJR北海道の社長のような悲劇を再発しないとも限りません。

事後処理の交渉は、謝罪とは完全に切り離して考えるべきです。感情の部分の解決に時間とエネルギーを費やそうとすると、実際的な部分がおろそかになります。過去日本で起こった災害や事故の処理では、いつもこの部分がネックになっていたと思います。実際的な部分にフォーカスし、英知を結集して解決に当たる、という姿勢で臨まなければ、決して前進しないと思います。

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寛容を失った社会は、疲弊していきます。感情的な対立だけが一人歩きし、本当に助けを必要としている人は置き去りにされたままです。今の日本の政治などは、まさしくそういった状況だと言えるのではないでしょうか。

「寛容な社会」を標榜しながら、その実、正反対な国。それが今の日本です。もちろんそれは日本に限った傾向ではないのかも知れません。しかし、今という困難の時代、聖書の示す、「神の寛容」が、いかに待ち望まれていることかと思います。

教会こそがまずそのことを示していかなければならないことは言うまでもありません。願わくば、その点において、教会が「地の塩、世の光」として用いられるよう願うばかりです。

コメント

  1. やまちゃん より:

    JR北海道の社長自殺に思う。この方は社長になるべき器でなかった。色んな事故や会社の不具合で利用者に迷惑をかけたら謝罪して社長職を辞任すべきであった。事後処理は後任の社長に任せれば、自殺という道を選択しないですんだはず。
     元々社長に就任して時に会社の欠陥を見つけ出して対処しておくべきだった、社長になった途端に、トップのやるべき仕事を忘れてしまった愚かな人間に過ぎない。

  2. たにちゃん より:

    初めまして。
    聖書にあるとおり、謝罪には、犯した罪を言い表すことが必要だと思います。
    「私はこれこれの悪いことをしました。それは間違っていました」と、自分が犯した罪の認識を世間に明確に表明することです。
    でも、日本人の会見での謝罪は、自分の犯した罪の内容を述べなく、「今回のことで世間をお騒がせして、すみません、ご迷惑をかけましてすみません」だけで終わるので、信用できないのだと思います。そして、自殺には、あとに残った人への追求は、私の死をもって勘弁してほしいと、暗にほのめかすメッセージが隠されている。人が1人死ぬと、追求の矛先がにぶり、うやむやに。
    これは日本の伝統的責任の取り方だと思います。こんな感じでは、赦しということが出てこない文化だと思いますよ。